FC2ブログ
2012.07.0815:48

◎祇園祭り最大の謎◎

その謎とはズバリ、なぜ祇園祭りの神輿は三条大橋を渡るのか?

070805.jpg
今日の八坂神社。

70826.jpg
7月17日の山鉾巡行一大イベントが終わったその夕方、この楼門前=石段下に神社から神輿三基が繰り出し大賑わいとなります。


最大の謎・・
070815.jpg
三基の神輿は石段下に勢ぞろいし気勢を挙げたのち三者三様、それぞれの氏子地域を練り歩き夜の20時過ぎ(実際には21時頃かな?)、なぜかわざわざ遠回りとなるこの三条大橋を次々と通過します。なぜ?


向かう先はここ・・
070816.jpg
繁華街ど真ん中の四条寺町の御旅所。普段はこんな御土産屋さんですが・・

070827.jpg
17日の神幸祭から24日の還幸祭までこのように3基の神輿がでんとお出まし。


昔の御旅所・・
070817.jpg

070818.jpg
説明文通り、ここ大政所の御旅所と少将井の御旅所の2か所が昔の姿。

この少将井の御旅所は現在の京都新聞の裏側、車屋町夷川上ㇽに町名のみが残っていますが、昔三若の人に聞いた所、この御旅所に神輿を運ぶために三条大橋を渡ったと聞いている、そんな答えでした。・・この御旅所は今の中御座の神輿が泊まる場所だった。何となく理解できるが、ならば残りの二基までもがなぜわざわざ四条大橋を渡らず一緒に三条大橋という大きな迂回コースを取るのか?

その答えとしてまず浮かぶのが・・
時は天正19(1591)年、天下を納めた秀吉は京の都の都市大改造に着手。その時御旅所も現在の位置にう移る。だが同時進行で京の都をぐるりと御土居で囲います。鴨川に面した出入り口は五条口と三条口の二か所のみ。両大橋は今みたいな立派な橋で後の公儀橋。この御土居が取り払われるのは秀吉死後の1601年の事。この11年間四条橋は完全に閉鎖されています。

色々説があるようです。嫌がらせ説。個人的に思うのであれば嫌がらせをするのであれば祇園祭りそのものを廃止に追い込めば済むこと。わざわざ四条寺町に御旅所何か作らない。

多分秀吉としては、逆に八坂神社から最短距離のこの地に御旅所を持ってきて少しでも喜んでもらおうと考えたのでは?

ではなぜ四条大橋を閉鎖したのか?・・それは、推測ですが、当時の鴨川は一雨ごとに氾濫する暴れ川でありまだ川幅も相当広く(高瀬川を超えていた)防ぎ用がなかった。五条及び三条両大橋は、前者は秀吉が威信をかけ新たに作った五条通りの目抜き橋で豪華で立派。後者もそれに負けじと数々の文献に残るこれ見よがしの大橋。少々の大雨にもびくともしない。その間の四条橋と言えば、あくまでわたくしの私橋で、浮き橋と言われるかまぼこ板のような橋で、それはいつ流されても、また作り変えればいい、そんな橋の一つでした。流されるたびに寄付金集め手は作る。たまには通行料を取ったり・・。ある時は祇園祭の神輿を渡す為、そのための身に仮橋を作ったことも。

・・橋が流されると言う事はそれ相応の水害も繰り返され、ならば五条と三条大橋以外はすべてシャットアウト!水害から守る為すべて閉鎖、御土居で囲む。秀吉はこう考えたはず。

御土居が壊されたのが1601年、角倉了以が高瀬川着工が1611年その前に鴨川の護岸工事に着工しています。つまり江戸幕府は暴れ川を何とか鎮めようと角倉に命じる。護岸技術が急速に発展したのが御土居解体の最大原因であると思います。

この秀吉11年間の迂回コースが今なお引き継がれているというのが僕の考えです。
スポンサーサイト



コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

超お金持ち

Author:超お金持ち
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
名言

地球の名言 -名言集-

検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR