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2012.03.2316:41

黒船★ペリーのその後★襲来

海軍軍人のペリーに日本へ行って開港を迫れと命令したのは時の米国大統領フィルモアでした。当時は海軍と言っても名ばかり。蒸気船の軍艦なんて世界中で50隻程度しかなかった。イギリス・ロシア帝国など列強の侵略主義が過酷な競争時代を迎え中国・清王朝侵略に大きな遅れを取った米国は何としても中国大陸進出を果たすべく、米→フィリピン→中国大陸の一直線の最短コースを虎視眈々と狙う。その途上の日本は船の燃料補給や食料補給などを賄う中継基地としてなんとしてでも開港させねばならない。・・この後スペインに難癖をつけ米西戦争の結果キューバからフィリピンの所有権をもぎ取りますね。

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ペリー提督。当時提督と言う名称はなかったとかなんとか・・、でも提督の方がかっこいい。海軍一家に生まれる。

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黒船。

1794年生まれ。
1814年、海軍大尉になる。 黒人奴隷をアフリカに帰す運動に参加、黒人を アフリカに返す船団の指揮をとる。
この運動がきっかけでアフリカにリベリア共和国が誕生する。ペリーはリベ リア建国の恩人の一人として尊敬される。
この年表はどうも怪しい。20で大尉になるなんて考えられないしそれ以前にも海賊退治で名を馳せたとありならば10代でもう大活躍していたことになる。


太平の眠りを覚ます上喜撰 たった4杯で夜も眠れず

萩市内の民家で見つかった吉田松陰直筆とされる『燕都(えど)流言録』
これは吉田松陰の狂歌みたいです。ただ松陰のは・・
「アメリカがのませにきたる上喜撰たった四杯で夜も寝ラレズ」・・・で流行の歌を混ぜ合わせたのでしょう。


ペリーは世界に負けない大艦隊、12の大艦隊を政府に要求するも諸事情あって、母港ノーフォーク湾から出港発したのはミシシッピー号一艦のみと言う寂しさ。とほほ。
当然まだパナマ運河はない。アフリカをぐるり、ケープタウン経由の大冒険。インド洋へ出てシンガポールから上海へ到着。ここで三艦と合流し合わせて4艦で日本へ出発。艦船と言っても蒸気船は二つ、残りは帆船で蒸気船がロープで引っ張ったと言う。だが、その化け物のような巨大な黒船灰まで言えば成田にスペースシャトルで舞い降りるような騒ぎだったのでしょう。ペリーは言う事を聞かないと沖合に数十隻の同様な船が待機していると蚊大ぼらを吹き、慌てた幕府は確認を急いだところ、そんなの大噓と判明。この時は逃げるように引き上げる、来年また来ると捨て台詞を残し。

だが実はペリーは上海に戻っただけでそこからチャンスを狙っていた。そして翌年再び現れ和親条約が締結。ところが一躍時の人として大歓迎の本国へ凱旋のはずが、大統領が変わってしまった。ホイッグ党(後の共和党)から民主等へ。政策が大きく変更されペリーの偉業は全く無視される。。。米国もこの時期はまだまだ未熟国家で、この後間もなく南北戦争が勃発ですね。日本の明治維新と殆ど同時期。当時日本も米国と言う後進国?など相手にせず英国かフランスの近代国家近代憲法を学んでいますね。

トホホ状態のペリーは条約締結後香港へ。ここまでは我が旗艦でしたが、そこからなんと郵便船に乗りとあるから一般客としてでしょうね、シンガポール→カイロ→ここからアルプス山脈越えでハーグとさまよい人のようなコース、最後ハーグで郵船をずっと待ち続けやっとニューヨークへ帰国。
ノーフォーク港を出発したのは1852年11月24日。
失意のうちにニューヨーク港へ着いたのは1855年1月12日。

帰国後彼は侵略主義をひた走るイギリス・ロシアに警告を発し続け、また日本人の優雅さ勤勉さその技術力を絶賛、日本が間もなく近代国家入りすることや日米が競争となる予言の「遠征記」の執筆に没頭。帰国3年後妻の実家で静かに人生を終えた。

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