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2012.06.1408:55

◎秦氏と太子山◎

昨年7月13日のブログです。パソコン画面上に二つのブログを広げ一方の写真の乱数表をコピーしこちらに貼り付けるだけでOKなのですね!初めて知った、いままで馬鹿正直に一からやっていた。・・そんな超簡単な方法で対し山の写真を貼り付けです。・・追加写真でちょいと文章がバラバラになりました、殆ど誰も興味がないでしょうが、言いたかった事は、この子孫に当たる秦家が太子山そのものと言う事。つまり聖徳太子=秦氏。これだけ覚えておけば大丈夫。お薬でも有名。
なおすべての写真クリック2階で7画面からはみ出る大きさに。特に一番下の写真、ローソク売りの唄の子供たちがほんのり見えますよ。昨年の祇園祭です。


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日本書紀の記述は。応神天皇十四年、弓月君が百済から来て、天皇に奏上した。「私の国の百二十県の人民が帰化を求めています。しかし新羅人が拒んでいるので、みな加羅国に留まっています。」天皇は葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)を遣わして、加羅国の弓月の民を召されたが、三年を経ても襲津彦は帰らなかった。応神天皇十六年、天皇は平群木菟宿禰(へぐりのつくのすくね)、的戸田宿禰(いくはのとだのすくね)を加羅に遣わした。天皇は精兵を授けて、「襲津彦が帰らないのは、きっと新羅が邪魔をしているからだ。お前達は速やかに赴いて新羅を撃ちその道を開け。」と命じた。木菟宿禰らは精兵を進めて新羅の国境に臨んだ。新羅王は恐れて、その罪に服した。二人は弓月の民を率いて襲津彦と共に帰ってきた。


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月氏(呉音:がちし、漢音:げつし、拼音:Yuèzhī)は、紀元前3世紀から1世紀ごろにかけて東アジア、中央アジアに存在した遊牧民族とその国家名。紀元前2世紀に匈奴に敗れてからは中央アジアに移動し、大月氏と呼ばれるようになる。大月氏時代は東西交易で栄えた。


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秦の始皇帝(在位:前246年 - 前210年)の時代、中国の北方では東胡と月氏が強盛であった。一方、匈奴は陰山の北からオルドス地方を領する小国にすぎず、大国である東胡や月氏の間接支配を受けていた。ある時、匈奴の単于頭曼は、太子である冒頓を廃してその弟を太子にしようと、冒頓を月氏へ人質として送った。しかし、頭曼は冒頓がいるにもかかわらず月氏を急襲してきた。これに怒った月氏は冒頓を殺そうとしたが、あと少しの所で逃げられてしまう。匈奴に逃げ帰った冒頓は父の頭曼を殺して自ら単于となり、さっそく東の東胡に攻め入ってこれを滅ぼし、そのまま西へ転じて月氏を敗走させ、次いで南の楼煩、白羊河南王を併合し、漢楚内戦中の中国にも侵入し、瞬く間に大帝国を築いた。




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その後も依然として敦煌付近にいた月氏であったが、漢の孝文帝(在位:前180年 - 前157年)の時代になって匈奴右賢王の征討に遭い、月氏王が殺され、その頭蓋骨は盃(髑髏杯)にされた。王が殺された月氏は二手に分かれ、ひとつがイシク湖周辺へ逃れて大月氏となり、もうひとつが南山羌(現在の青海省)に留まって小月氏となった。

その月氏の子孫(間違いない筈)の秦氏のそのまた子孫,秦家のお家です。市の 文化財に指定されてしまったからさあ大変。「奇応丸」の看板があるように今でいう薬局屋・調剤所・小児病院を兼ねたプチ総合病院だったんでしょうね。「奇応丸」」の製法が16世紀に入って日本へもたらされたらしいですね。




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秦氏と言えば言うまでもなく聖徳太子。それを祭ったのが「太子山」。今年は「山七番」でしたか?油小路の西の端なので訪れる人もまばら。静寂の日暮れから、子どもたちの無邪気に歌う「ローソク売りの唄」が聞こえてきます。穴場なので密かに訪れてみてください。(でも実際はやはりかなり多い)。秦家の皆さんは優しい人ばかりです。このお家が「集会所」、あらゆる質問に笑顔で答えてくれますよ。

温故知新=「古きを知り新しきを知る」・・人と人との心の触れあいを求め、どうぞ祇園祭へおこしやす!
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